第七章 三日月の夜に

(1)


夕刻の青い街を、優子と誠が並んで歩いている。仕事の帰
り道である。優子が告白をして、二人が恋人になってから
一年が過ぎようとしていた。
「新しい絵は描いてるの?」
歩きながら優子が誠に話し掛けた。
「うん‥‥いや‥‥」
誠は言葉を濁して答え、空を見上げた。
「月が出てるよ。」
「まあ、本当。」
誠が指さす方を見ると、薄暗い空に三日月が浮かんでいた。
「僕は時々、月が地球の周りを回る衛星だなんて知りもし
ないような大昔の人たちは、いったいどんな心持ちで月を
見上げていたんだろうって想像することがあるんだ。自分
もそんな時代に生まれて、まっさらな気持ちで月を見たら、
どんなだったろう、そんな気持ちで月を見てみたかったな
あって思うんだ。」
「素敵だわ。」
優子は誠の横顔を見ながら、そう言って微笑んだ。すると
誠が不意に立ち止まった。
「僕はね、絵を描くのをやめようと思うんだ。」
驚いた優子は一瞬言葉を失った。
「どうして?」
「うん‥‥このまま続けていても売れそうにないし、将来
のことを考えると、ちゃんとした仕事に就いた方がいいと
思うんだ。」
そう言うと、誠はまた歩き出した。
「実は今働いてる会社で、正規の社員にならないかってい
う話があってね、電気工事の小さな会社だけど、ちょうど
いい機会だからそうしようかなと思うんだ。夢を追いかけ
るのも、そろそろ潮時かなと思って。」
優子の目には、そう言った誠の横顔が、何処となく寂しげ
に見えた。
「あなたは本当に絵をやめたいの?本当はやめたくないん
じゃないの?」
「え?」
「あなたの顔を見ていると、とても本心から言ってるとは
思えないわ。私に心配かけまいとして言ってるんじゃない
の?」
誠は立ち止まって、何も言わず優子の顔を見ていた。
「私はね、初めてあなたの絵を見た時、心が救われたの。
あなたの絵には祈りがあるって思ったわ。人間にとって一
番大切なものがあるって。あなたは絵をやめるべきじゃな
いわ。」
優子はこの時、話していて突然、以前から胸に秘めていた
ある覚悟が決まった。
「私にはあなたを助けてあげることなんて出来ないのかも
しれない。あなたの役に立つことなんて、何も出来ないか
もしれない。でも‥‥それでも私はあなたの傍にいたいの。
あなたが嬉しいなら一緒に喜びたい。あなたが辛いなら一
緒に苦しみたい。あなたが悲しいなら一緒に泣きたい。だ
から‥‥どんなに苦労してもいいから、あなたの傍にいさ
せて下さい。」
優子は真っ直ぐ誠の顔を見つめた。誠も優子を見つめ返し
た。
「祈りか‥‥」
寂しげだった誠の顔が、次第に明るさを取り戻していくよ
うに見えた。
「僕は絵を描くとき、いつも願いを込めて描いてるんだ。
この世界から飢餓や戦争がなくなりますように、不幸な人
がいなくなりますようにってね。僕はね、人の願いには力
があるって信じてるんだ。僕一人の願いの力は微々たるも
のかもしれない。でももしも世界中の人が僕と同じように
願ったら、その力はどれほどになるんだろう?もしもそう
なったら、世界から本当に飢餓や戦争がなくなるんじゃな
いだろうか?不幸な人がいなくなるんじゃないだろうか?
そんなことを想像しながら、絵を描いているんだ。」
そう話す誠の目が輝いているのを見て、優子は胸が一杯に
なった。
「あなたはやっぱり絵を描くべきだわ。どんなことがあっ
ても。」
誠の心には、もう迷いはなくなっていた。
「ありがとう。君が傍にいてくれて、本当によかった。」

二人はまた空を見上げた。すっかり暗くなったその中に、
三日月が先ほどよりも高く、輝きを増して見えていた。






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