第八章 祈り

(1)


雪がちらつく十二月のある寒い日に、優子と誠は互いの家
族だけで小さな式を挙げ、アパートを借りて新しい生活を
始めた。暮らしは楽ではなかったが、辛くはなかった。む
しろ慎ましく生きることに悦びを覚えた。何もなくても幸
福だった。何もないからこそ、見えて来る幸福もあるのだ
ということを、初めて肌で感じた。

同じ頃、秀子は沈んだ顔をして病院から出て来た。いつに
も増して木枯らしが身に染み、足取りは重かった。葉の落
ちた裸の街路樹に挟まれた長い坂道を途中まで上がったと
ころで立ち止まり、ひとつ大きく息を吐くと、無意識に腹
に手を当てた。
妊娠二ヶ月だった。
「あの人は何て言うだろう?」
秀子は不安だった。英一は手放しで喜んでくれるだろうか
?それとも歓迎されないのだろうか?彼女にはそれがまる
きり想像出来なかった。

マンションに戻ると、英一が珍しく先に仕事から帰ってい
た。
「今日は早いのね?」
「ああ、早めに仕事を切り上げて来た。君に話しておくこ
とがあるんだ。」
「何?」
「うん、そこに座って。」
二人がテーブルに向かい合って座ると、英一は話し始めた。
「僕はアメリカに行くことにした。」
「えっ、アメリカ?」
秀子は驚いて聞き返した。
「どういうこと?」
「実は以前から、アメリカの研究所からの誘いがあってね。
今の所よりずっと大きくて、設備も充実している。向こう
は環境学の先進国だから、待遇も今よりずっといいんだ。
僕にとってはまたとないチャンスなので、思い切ってそっ
ちへ行くことにしたんだ。」
淡々と話す英一の口振りは、秀子の意見を聞くまでもなく、
もう決まったことのようだった。
「私はどうしたらいいの?」
秀子は途方に暮れてそう言った。
「うん、君は今の所に残った方がいいんじゃないかな?辞
めてしまうのはもったいないよ。君は優秀だから、今の仕
事を続けていれば、そのうちにきっと僕みたいに海外の研
究所から声が掛かることもあると思うよ。」
「それじゃあ私たち‥‥これでお別れってこと?」
「もちろんどうするかは君の自由だよ。仕事を辞めて、一
緒にアメリカに行くっていうなら、それでも構わない。で
も向こうで今と同じような仕事を見つけるのは難しいと思
うよ。」
英一は終始、冷静な表情を崩さずに話した。秀子は頭の中
が混乱したまま、重い口を開いた。
「英一さん‥‥私も話があるの。」






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