最終章 秘密の場所
(1)
髪をなびかせる優しい風に、春の息吹きが感じられた。早
咲きの桜もじきに花を開き始める頃だろう。団地の中の長
い遊歩道を歩きながら、秀子はそんなことを考えた。英一
と別れて、子供を産んで実家に戻ってから一年が過ぎよう
としていた。
研究所の仕事を辞め、実家から通える距離の小さな研究施
設の事務所で働き始めた。収入は減ったが、その分育児に
割く時間を確保出来るので、今の自分に見合った働き方だ
と秀子は思っていた。
この道を歩くのは何年振りだろう。ちょうど小学校の終業
どきで、遊歩道には家に帰る子供たちの姿があちらこちら
に見かけられた。秀子は少し前の方に、ランドセルを背負
い、二人並んで歩く女の子の後ろ姿を見つけて、子供の頃
の自分と優子を重ね合わせ、胸が切なくなった。
車道の上に架かる太鼓橋を渡ると、その先に長い階段が見
えて来た。小学生の頃、いつも優子と二人で一気に駆け上
がっていた階段だ。秀子はその時のことを思い出しながら、
一歩一歩踏みしめるように上った。
階段の先、丘の上に古いマンションが姿を現した。その前
に立ち、上を見上げてみる。あんなに高かった屋上が、心
なしか近くに見える。
優子と一緒によく来た、秘密の場所。ここに来ればどんな
時でも、心の内が解り合えた場所。
秀子は懐かしさと共に、時の流れを思った。二人の思い出
が、遥か遠い昔のことのようでもあり、つい昨日のことの
ようでもあった。
マンションの階段をゆっくりと上る。壁や天井が間近に迫
って見える。こんなに狭かったのかと、今さらながら驚い
てしまう。
二階、三階と上って行き、一番上の踊り場が近づいて来る。
知らず知らずのうちに胸が高鳴り出す。
一歩、また一歩と少しずつ階段を上がって行く。その先の
踊り場が少しずつ視界に入って来る。
最後の一段に足を掛ける。
着いた。秘密の場所だ。
窓の前に、こちらに背中を向けて誰かが立っている。
秀子はその後ろ姿に声を掛けた。
「優ちゃん。」
優子が振り返った。
そして秀子を見て笑った。
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